移民の暮らし 8

囚人上がりのフランシス・グリーンウェーはシドニーの建設が始まったばかりの頃、石造りの政府庁舎の設計をほとんど1人で担当しました。


グリーンウェーの後継者の1人に、イングランド人設計技士及び建築家で、主に個人の仕事を専門としたジョン・バージの名を挙げることができます。


彼はそれまでの修業をやめ、土地を耕やすつもりで1828年にオーストラリアへやって来ました。


バージは1830年代に、再び建築家としての道を歩み始めることとなります。


彼はリージェンシー様式(簡素な外観、化粧着色しっくい仕上げ、円孤アーチ、鉄のバルコニーとベランダを持つ建築様式)に手を加えました。


エリザベスベイハウスやマッカーサー一族の邸宅であるカムデンパークも彼の作品です。


1830年代には、オーストラリア社会に蓄積された富を反映して建築ブームがおこり、バージが建てたスマートな邸宅を初め、多くの邸宅が建築されました。


一方、奥地の開拓地では、いつの日にか「上流階級」を築くことを夢見て、スクォーター達が不自由な生活を強いられていました。

移民の暮らし 7

この他、オーストラリアは土地に入植する目的の人々に限らず、スクォーターの活動に便宜をはかることで、金をもうけようとする人々にとっても旨味のある土地でした。


カナダ生まれのフレデリック・ダルゲティーは、1834年、シドニーにやって来ました。


1842年にはメルボルンへと移り住み、1848年までには「入植者相手の商売」に的をしぼり、スクォーターに雑貨を売り、逆に彼らからは羊毛を買い取るという商売を軌道にのせていました。


1880年代になるまでにはオーストラリアウールの輸出を手がけ、又英国からの投資相談にのるまでに、事業は拡張されていました。


この他にも、地方の発展と事業の発展に貢献した移民達がいました。


国を切り開いた探検家や測量士はこれまでも脚光を浴びる機会が多かったのです。


それに比べて橋や道路の設計に生涯をかけた人々に関する記述は極めて少ないものです。


1832年にシドニーへとやって来たスコットランド人デビッド.レノックスはすぐれた石工でした。


その1年後、彼は橋の設計を任されることとなりました。


ラップストーンとパラマッタにかかるレノックスブリッジ、リバプール近郊のランズドーンブリッジを初めとする彼の作品は、今なおその姿を留めています。


同じ様に、都市の建築家も重要な存在でした。

移民の暮らし 6

すべての場所で、上流階級の人々を含む投資家が成功を収めていたわけではありません。


西オーストラリア、スワンリバーへの植民計画は手痛い結果に終わっています。


大陸東部に入植していた同じタイプの貴族投資家に刺激され、西部地域に植民地を作る計画が、1829年に立てられました。


ここでは各移住者の資力と、労働者の人数に応じて土地が与えられることとなっていました。


イングランド人地主トーマス・ピールと、その共同経営者で、商売を成功させていたエマンシピストのソロモン・リビーは最も広い土地の割り当てを受けた1人。


その土地は250000エーカー(約100000ヘクタール)にも及んでいました。


ピールは400人の入植者を呼び寄せることができた暁にはさらに250000エーカーの土地を、12年後にはさらに500000エーカーの土地を約束されるという条件で土地の開発に着手しました。


ところがこの事業は失敗に終わってしまいました。


せっかく育て上げた作物に対し、買手がつかなかったのです。


西オーストラリアは衰退の一途をたどっていきます。


1850年にはわずかに5886人の人を残すのみとなっていました。

移民の暮らし 5

移住当初はアッピン、イラワラ付近のアイルランド人入植地に腰をすえ、その後はブルーマウンテンズを横断し、ヤス地域へと移動しました。


ヨーク州出身のローレス兄弟、クレメントとポールはさらにめざましい成功を収めました。


1840年、リバプールを出港した2人は、ハンターバレーで一時暮らした後、クイーンズランドのモレトンベイ地方へと移ります。


1850年代までに、2人の兄弟は合わせて281マイル四方(約725キロメートル四方)もの広大な土地を管理するまでになっていました。


2人は他の移民の例に習い、40代になってから、アイルランド人の花嫁を娶るために故国に戻りました。


その後はアイルランドとクイーンズランドの間を行き来し、最終的には、共にアイルランドで永遠の眠りについたのです。


彼らの子孫はオーストラリアに残り、大家族を築きあげ、その家系は今なお途切れることなく続き、開拓者であった先祖の手になる農場経営を続けています。

移民の暮らし 4

スコットランド人居住地はオーストラリア全土にわたって形成されました。


ニューサウスウェールズ北部とクィーンズランド南部、ダーリンダウンズの緑の台地は、彼らに新たな家、新たな利益をもたらしてくれました。


スコットランド人開拓者は土地を信じ、羊を、小麦を、馬を、牛を、土と共に生きているものすべてを、そして霊魂を信じました。


スコットランドのパースからやって来たアーチャー家はクイーンズランド南部に初めてその足跡を印した家の1つです。


一家には13人の子供がいましたが、そのうち9人はオーストラリアで暮らしました。


アーチャー兄弟の1人、アーチボールドは後に18年の長きにわたりクイーンズランド議会での議席を守り、兄弟の中にはこの他、1880年代のロンドンで、クイーンズランドの総代理人を勤めた者もいます。


広大な土地を所有していたのはイングランド系、スコットランド系移民に限りませんでした。


オーブリエン兄弟、ヘンリーとコルネリウスは1814年におじと共にアイルランドのメーヨ州から移住してきました。

移民の暮らし 3

スコットランド出身の移民の多くはまずタスマニアへと行き、その後タスマニアを横断してポートフィリップ地方へ向かいました。


移住を奨励する為にポートフィリップ組合が結成され、この組合からタスマニア、スコットランド双方に財政的つながりのあるクライド商会が生まれました。


農業を営む上流階級の人々は、スコットランドロウランド地方から、後にビクトリア植民地となる地をめざしました。


スコットランド人農夫の息子で牧畜業を営む会社の共同経営者ネイル・ブラックは、1839年、メルボルンの地を踏んだ時、ここは「スコットランド人のための植民地」であると言ったそうです。


肥沃なビクトリア西部地域に初めて入植した農民の3分の2近くは、スコットランドの出身であったと思われます。


その多くは「確かな人格を備えた立派なジェントルマンで、本国との縁も深かったのです。

スコットランドで独立して農業を営んでいたアン・ドリスデイルは同様に注目に値するスコットランド人女性です。


彼女は健康上の理由から、ポートフィリップへの移住を決意しました。


1840年ポートフィリップに到着した後、イングランド生まれでドリスデイルより年若のカロライン・ニューカムと牧畜業の共同経営を始めて成功をおさめました。

移民の暮らし 2

1820年代のスコットランド移民の多くは、中流の商業者階級、あるいは上流階級の出身で後者は多くの家臣を連れていました。


当初は好んでタスマニアを入植地としましたが、徐々にニューサウスウェールズに入植する人も増えていきました。


イムレー家の3兄弟、ピーター、ジョージ、アレキサンダーは1820年代後半、1830年代前半にアバディーンシャーからオーストラリアへやって来ました。


そして程なく、兄弟達はタスマニア、トゥーフォールドベイ、ニューサウスウェールズのベガ地方に土地を手に入れます。


1820年代にはタスマニア、ニューサウスウェールズの両地方でスコットランド人地主の占める割合は6分の1から3分の1へと上昇しました。


1820年代にはおよそ3000人のスコットランド人がオーストラリア東部へと移住したのです。

移民の暮らし

たくさんの英国の上流階級の人々がオーストラリアに入植した時代がありました。


その中には、家臣や、即戦力となりうる労働者を連れた人々もいました。


ベッドフォードシャーの地主で、国会議員の1人でもあったトーマス・ポッター・マックイーンは、1823年に
10000エーカー(4000ヘクタール)の土地を払い下げられました。


彼は、その後の1825年、ハンターバレーに機械工、農夫、羊飼いの一団を送り込みました。


1825年から1838年にわたり、マックィーンは42000ポンド(84000ドル)の金をつぎ込んで荒地を開いて種をまき、つぎ木をし、品種改良までして農業の発展に努めました。


1830年代には4年の間オーストラリアに住まい、移住の将励、擁護を行ないました。


1820年代、1830年代にはスコットランドからも上流階級の人々がやって来ました。


19世紀初頭、スコットランドでは商業、農業の改革がおこり、ある者は新たな財をなし、またある者は没落の憂き目にあいました。


この様な傾向と相まって、人々は植民地オーストラリアに目を向けたため、エジンバラとその周辺地域から、かなりの数にのぼる人がオーストラリアに渡りました。


オーストラリア商業の可能性を探るため、1822年にはエジンバラとリースに「オーストラリア商会」が設立されました。


あのミュージカルのストーリー

レ・ミゼラブルのストーリーに軽く触れると・・・

パンを一切れ盗んだがために、19年の獄中生活を送ったジャン・バルジャン。

仮出獄の身に世の中は冷たい。
絶望した彼は、救いの手を差し伸べてくれた司教の銀の燭台を盗んでしまう。
その司教の愛に触れ、バルジャンは新たな人生を歩むことを決意する。
8年後、彼は市長という身分を得ていた。

そして、自ら経営する工場で働いていた薄幸の女性ファンテーヌの忘れ形見コゼットを娘として育てている。
しかし、彼の背後にはいつも追手ジャベールの影があった。

あのミュージカルは良い・・・5

レ・ミゼラブル

衣裳をデザインしたアンドレアーヌ・ネオフィトウも、学生たちの衣裳については、バリケードを念頭に置いて安全性と動きやすさを最優先にした。

また、全体的に一九世紀のリアル感を追求(ジッパーやテープは使わない)。

《レ・ミッズ》の一つの特徴だが、バルジャンとジャベール、子役以外は、すべての俳優が何役も演じている。

プリンシパルで平均6役、アンサンブルは平均12役。

だから、早替りしやすい工夫も大切だった。

照明は、舞台奥からの人々の迫力ある登場や、一幕ラストのトリコロール色、死を表現する強烈な白色光と、やはり人びとの感情を見事に表現する。

このように創作過程におけるアイディアは、今もなお圧倒的な威力で観客に迫る。

2000年5月、この一大叙事詩は、ロンドンで通算6000回の上演を祝った。

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